ストレスマネジメント~脳科学の日常的ストレスヘの応用
1.ストレスマネジメントの重要性
筑波大学大学院 人間総合科学研究科 社会環境医学専攻 環境・産業保健学 講師
笹原 信一朗
(さんぽいばらき 第26号/2006年07月発行)
毎年4月から5月にかけては異動の時期です。「5月病」という言葉が定着してきているように、この季節は新人や異動直後の人たちはもちろん、異動を受け入れる側もストレスがたまりやすい時期です。ストレスがたまると、ストレス発散・解消となり、歓迎会での飲み食いや親睦会でのスポーツなど、自分の外に向けて何か対策をとる方が多いのではないかと思います。このような対処は、外的対処と呼ばれ大きな効果があります。ただ、残念ながら効果が長続きしない点と時間と費用がかかるという点で、このような外的対処だけではストレスマネジメントは上手く行かないという欠点があります。
それを補うものが、今回ご紹介する「内的対処とカウンセリング的対応」です。これは、習得の難易度に個人差があるのですが、一度習得するといつでもどこでも実施可能で、また効果も長く続きます。日頃忙しく、ストレスを発散する時間も少ない時にこそ有効です。現代の労働環境は、家族と夕食をとる時間を労働者から奪ったともいわれているような状況です。このような時代だからこそ、ストレスの内的対処に関心をもって取り組んで頂けたらと考え、この2~3年総合支援センターの講演やセミナーで「ストレスの内的対処」をご紹介させて頂いてきています。今回は、「さんぽ便り」にて、そのダイジェスト版をお届け出来ればと考え執筆させて頂きました。
2.事例紹介
まずは、内的対処によるストレスマネジメントの具体例をご紹介いたします。
ケースA:30歳女性 某企業職員 既婚
<相談にいたるまで>
1968年12月:
U県にて長女として出生(3歳年上の長男がいる)大学までは地元の学校に通い、成績は中程度
1992年4月(24歳時):
大学卒業後に、某広告代理店に就職
1998年8月(29歳時):
職場の同僚と結婚
1998年10月(29歳時):
部所内の主任に抜擢され、急にレベルが高く、締め切りの厳しい仕事を任せられるようになる。上司に相談しても「君は主任に抜擢されるくらい優秀なのだから」と取り合ってもらえなかった。
このころより、頭痛と生理痛などの身体的不調が出現し、何とか残業だけは減らしてもらっていた。
1998年12月(30歳時):
仕事量は減ったものの、会社に行くのがおっくうになり、食欲が低下し、寝付きも悪くなった。さらに、寝付いても早朝に目が覚めるようになり、寝ても寝た気がしなくなっていた。そのため、1日に焼酎1合の寝酒をはじめ、何とかやり過ごしていた。
1999年2月(30歳時):
寝酒をしても熟眠感は得られず、早朝の倦怠感と、身体的な疲労感は抜けず、このままでは良くないと思い産業医の先生に相談した。すると心療内科の受診を強く勧められ、渋々紹介受診することになった。
1999年3月(30歳時):
初めて心療内科のクリニックを受診。
その際、声のトーンは低く、口数も少ない。さらに話ながら時折、涙目になっていく。服装はやや地味な姿、化粧はしていない。今回の受診のために上司に休暇を申請したところ、「年度末の忙しい時期に休暇とは悠長でいいな~」と言われたことをぽつりぽつりと話し始める。「自分にはこんな役職は荷が重すぎる。もう自信がない」と自信喪失の状態であった。
さらに、「入社してしばらく経った頃から、自分はこの仕事は向いていないと思うようになり、仕事をしていても充実感がなかった。結婚後は家庭を大切にしたかったが、仕事が忙しく、家庭のことに手が回らず、夫に対して何もしてあげられなくて申し訳ない。夫とも会いたくない。」と涙ながらに話した。
<相談後>
ゆううつな気分、不眠、意欲の低下等の症状があり、抑うつ状態であると診断された。
ただちに、薬による治療を開始した。さらに休職を勧めるが、上司の理解が得られず調整は難しいと頑なに休職を拒否したため、仕事は続けたまま外来治療を継続した。この後、定期的に外来通院による治療(薬物療法と認知行動療法)を続けた。
3ヶ月後…
仕事に対して、「以前は自分の仕事を完璧にやろうとしすぎていたと思います。もちろん完璧にやれればいいけれども、時には自分には無理な事もあるし、これからは無理のない範囲で一生懸命やろうと思います」と明るい表情でしっかり語るようになった。
このケースは、〆切の迫った仕事で裁量権が少なく、自分の技術と興味が十分に発揮できず達成感を得られない状態が続いたことが、抑うつ状態への発展に強く関連したものと考えられました。上司・家族など周りのサポートは十分ではない面があったものの、早期の職場での相談体制により、医療機関における早期治療に速やかにつながった事と、本人の認知と行動の改善により軽快したと考えられました。
3.ストレスの内的対処
この事例のように、近年のうつ病治療には認知療法・認知行動療法と呼ばれる精神療法が普及してきています。「認知」とは、ものごとへの考え方・捉え方の傾向を指している学術用語です。たとえば、ある日「宝くじで100万円が当たった」としたらみなさんはどう感じるでしょうか。脳が元気な通常の時なら、「ラッキーだなー!」と喜びを感じる事と思います。ところが、脳が疲れ果てた「うつ病」の状態の時には、「全ての運をここで使い果たしたので、あとは運気が落ちるだけだ…」、「こんなどうしようもない自分が当たってしまうなんて、普段頑張っている周りの人たちに申し訳ない…」などと、ものごとを”マイナス”方向にばかり捉えてしまいます。このようなマイナスの捉え方を和らげ、物事の捉え方を柔軟な方向へ磨いていく方法が、認知療法・認知行動療法と呼ばれる治療法です。つまり、ある状況は同じでも、その状況を捉える視野を広げ、ものごとヘの偏った執着を見直していくことがうつ病の治療に有効であり、日常生活に応用するとストレスマネジメントに有効であるということになります。このように、ストレスを自分の外に発散させるだけではなく、ストレスを自分のなかで解消させていく方法を内的対処と呼びます。
4.内却対処と脳科学
内的対処を日常生活で実践して行くには、どうすれば良いのでしょうか。私は、このヒントは最近の脳科学の急速な発展から得られたいくつかの知見にあると考えて、現在研究計画を練っています。最後に、私の今までの経験と研究成果から確認出来た有効な内的対処法のヒントをご紹介いたします。
A.一度たたんで、ひとつひとつ整理して進めてみる
まず、パソコン作業を思い浮かべてください。いくつも同時にファイルを開いてウィンドウが重なり、いっぺんに処理しようとした時に、「フリーズ」つまり画面が固まることを良く経験されると思います。これはワーキングメモリが足りないのが主な原因ですが、人間の脳でもこれと同じ事がおこっている時があるのではないでしょうか。やるべき仕事や事柄が同時期にいくつも重なった時です。私も、この原稿を書きながら他のファイルもいろいろ開いていたらフリーズしたので、この原稿以外はすべて閉じました…。人間のワーキングメモリは、どこにあるのでしょうか。現在の脳科学の知見からは、前頭連合野(前頭葉のなかの一番前、おでこの裏側、図を参照)と呼ばれる部分がワーキングメモリとしての機能を担っていると分かってきています1)。
ワーキングメモリとしての前頭連合野では、脳内の多様な領域にアクセスしつつ操作し、情報を選択的に取り出して全体の制御をしています。しかしながら、脳にはキャパシティがあって、ハードディスクのように容量も限られています。このように脳のワーキングメモリに限界があるのは構造上当然で、人間も複数の案件を同時に脳内で処理しようとするとパンクすることが理解されます。したがって、いくつもやることがあって”いっぱい、いっばい”になってしまったら、いったん仕事から離れて、再度ひとつひとつこなしていくと良いことが経験的にも理解して頂けることと思います。話しを聞くとたいした方法ではないと感じるかも知れませんが、シンプルな方法ほど効果も大きいものです。内的対処の一つの具体的方法としてご活用下さい。
B.ふだん使わない脳の機能を、自然と人に触れてリフレッシュしてみる
近年、テクノロジーの進化とともに、人間の機能の退化が始まっていると言われています。確かに狩猟時代と比較して、体骨格はスマートになり、頭蓋骨が大きくなりました。人類の歴史では、近年脳だけは進化してきたのです。しかし、最近コンピュータテクノロジーのめざましい発展にともなって、この脳が退化してきていることを危惧する声が増えてきています。脳神経外科専門医として「高次脳機能」外来を開設する築山節先生は、自らの豊富な臨床経験より次のように警告されています2)。
“普通の人たちがボケていく。会社の中で忙しく働いている人たち、独立して専門的なお仕事をされている人たち、あるいは主婦や学生…。彼らが置かれている環境はさまざまですが、よくよくお話しを聞いてみると、脳の使い方が偏っている面がある。本人も気づかないうちに「何か」をしなくなっていることがあるのです。(たとえば、自分の考えをまとめて話すということが出来ない人は、お仕事マニュアル的な対応しかしておらず、その他の場面ではほとんど単語で話していたりします)実際、そのことを自覚してもらった上で、生活を改善し、脳機能を回復させる訓練を続けてもらうと、彼らはたいてい治っていきます。
ボケの原則というのは、自分の脳を使っていない、もしくは使い方のバランスが悪いことが原因になる、また、その自分でしなくなっている「何か」を誰かが補ってしまっている場合が多いということです。その「誰か」は人ではなく、パソコン、インターネット、携帯電話、カーナビなどの道具であるのかも知れません。”
使わない筋肉が衰えていくように、脳も使わない部分が退化していくのだとすると、普段使わない脳を意識的に使うことの重要性が理解されます。そのためには、テクノロジーから離れて自然に触れることが一つの方法として有効であることが考えられます。
また、パソコン上でメールやチャットなどの文字情報だけでコミュニケーションをとっていると、相手の表情や声、その場の香りや雰囲気などの五感から得られる情報が極端に少なくなります。これも、せっかく人間に備わっている五感を使わない訳ですから、脳を退化させる原因になり得ます。人と会話をすることは、相手の表情や感情をくみとる非常に良い刺激と機会でもあります。さらに、都市化に伴い自然に接する機会が少なくなっています。この点に注目したストレス対策に、「マイナスイオン効果」があります。自然の樹木や川などからは、マイナスイオンが発生していて、これが人体にリフレッシュ効果があるとの研究結果が示されてきています。エアコンのマイナスイオン効果はないよりは確かにましです。しかし、公園を散策したり、時には山や海に行ったりすることは、マイナスイオン効果以外の多くの刺激にあふれていることも、自然に触れることの大きな効果ではないでようか。
このように、どこまでも続く高い大海原や、新緑の大自然に癒され自然に触れる機会や魅力的で温かい人間関係に触れる機会を、首段の生活におけるリフレッシュに意識的に取り入れていく事が、脳科学の観点からも支持される内的対処法の一つです(外的対処の要素も重なります)。
C.理屈・理論でなく、感じて動いてみる(日々に感謝・感動する)
人は、理論だけでは自分の行動を決定しないと言われています。その良い例が、宝くじやパチンコ、カジノなどのギャンブルです。単純なモデルで、コインの裏表による賭けを考えてみましょう。掛け金が500万円で、コインの表が出れば賞金1,000万円、裏が出れば賞金ゼロのくじがあったとします。みなさんは、このようなものに手を出すでしょうか。当選確率は1/2ですから、1回500万円を元手にして数回繰り返せば、期待値として高い率で儲かります。
500万円×2回=1,000万円の投資をして、2回連続で賭けるとします。
- 2回連続ではずれる確率(裏かつ裏)=1/2×1/2=1/4 結果:-1,000万円
- 1回だけ当たる確率(表かつ裏or裏かつ表)=1/4+1/4=1/2 結果:1,000万円
- 2回連続で当たる確率(表かつ表)=1/2×1/2=1/4 結果:2,000万円
*損しない確率=ii十iii=3/4=75%
*損する確率=i=1/4=25%
このように2回続けるだけで損しない確率は75%にもなります。このような当選確率が50%の賭け(表と裏の1/2ずつ)は黙っていても損しにくい仕組みになっています。しかしながら、このようなくじは売れません…。なぜなら、今まで貯めてきた「500万円」がなくなるかも知れないという「不安」な感情の方が、確率論で考えた理性による「500万円」の「冷静な儲け」に優るのが人の常です。それに対して、当選確率わずか0.000001%にも満たない宝くじが毎年確かに売れるのです。パチンコで大当たりが出るのは、高くても200回に1回程度です。大当たりの確率は、数字にすると1/200=0.005%です。「2回大当たりが続く確率は?」と計算すれば、悲しくなるほどの低い数字となります。
それでも、宝くじを買ったり、ギャンブルをしたりするのは、元手がある程度の額であれば、失う不安よりもやはり夢を買う”楽しさ”という感情が起こるからです。2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン教授は、この感情というものを経済活動論のなかに取り入れた功績が高く評価されました。つまり、人間は「儲ける」よりも「損したくない」という感情の方が、生存をかけたリスク戦略上優りやすいということです。このように理論だけで割り切れない「感情(Feeling)」は、実は高次脳機能の重要な要素です。感情を表出出来るということは、脳がそれだけ働いているという事にもなります。京都大学名誉教授で脳博士の大島清先生は、その啓発書で次のように語られます3)。
“わたしはつねづね「人生はカキクケコ」であると語ってきた。力は感動、キは興味、クは工夫、ケは健康、コは恋。「力」力が上手く行けば、不思議や不思議あとの「キクケコ」もうまくいく。
感動とはただ感じることではない。その数倍、数百倍の心の高揚、気持ちの集中のことである。感じたら、心も体も動く、の意だ。「感動」しているとき、わたしたちはしばしば忘我の中にたたずんでいる……感動することは幸福を感じることである。また「感動」は、ときに涙となって現れる。すばらしい映画を観たとき、すてきな本に出合ったとき、わたしたちはクライマックスに涙し、涙はカタルシスとなって心を浄化してくれる。「感動」とは心の癒しのことでもある。”
感動することが脳を活性化することにつながることが理解されます。普通の状態では、損したくないというネガテイブな感情の方が優位な状態な訳ですが、人間はリスクを冒して何か素晴らしいものを感じることも実際には出来る訳です。このためには、普段からいろいろなことに興味をもって観察することが重要ではないでしょうか。そして、ひとつひとつの日常の出来事に感謝の気持ちを感じることが出来れば、日々感動が積み重なっていくものと推測されます。最近、退屈だな~と感じたら、身近なことから「ありがとう」と声をかけてみるのが良いみたいです。感謝されて悪い気分のする人はいないものです。普段お世話になっている人へのありがとうの一言に、相手の笑みがこぼれ、相手の笑顔に思わずこちらも嬉しくなる事がありますよね。
このように感謝と感動の気持ちは理屈・理論ではなく、日々の実践のなかにその瞬間が宿っているもののようです。一日一日を大切にしていくことも、内的対処の一つの方法になります。
D.強い意志(思いや願いをこめる)は、脳を変える(プラセボの脳内効果)
スポーツ選手や企業経営者のサクセスストーリーを数冊並べて読んでみると、多くの人たちが「夢と目標を強く持ち続けること」、「夢をあきらめないこと」など、幼少期や青年期の”思い”や”願い”を強調されていることが分かります。「夢は願わなければ叶わない」と言いますが確かにそうです。しかし、逆は必ずしも真ならずで、「夢を願えば必ず叶う」わけではないことは誰しも経験するところであります。それでは、サクセスストーリーのポイントはどこにあったのでしょうか。実は、夢を持つだけではなく、それを”強く持ち続ける”や”あきらめない”の部分にあったと考えられます。最近の脳科学の研究4)で、”思いや願い”というものは脳のなかに重要な変化を及ぼせる事が分かってきました。痛みが角砂糖でとれるというプラセボ(偽薬)の研究です。
“何十年も前からプラセボの効果の発現には内囚性オピオイド系が重要な役割を果たしていることが複数のエビデンスから示されている。このプラセボ効果を今や最新の画像解析法により鎮痛薬を与えた時に活性化する神経化学回路の存在を直接示す証拠が得られた。健常男性ボランティア14人のあごに塩水を注射し、痛みを感じ続ける状態においたところで、「痛みを軽減する作用がある薬剤」と説明して被験者にプラセボを与え、PETとMRIスキャンで脳の活動を観察した。研究者たちは被験者の評価結果(疼痛スコア)と脳画像とを比較し、被験者がプラセボを受け取ったときに、背外測前頭前野皮質、前部帯状皮質の前方領域、島皮質、側坐核などの脳の各領域で内囚性オピオイド系が刺激されることを見い出した。”
プラセボは脳に確かに効果があったのです。夢や目標などの想いや願いが同じように脳に効果があることは十分に類推されます。そのような実験結果はまだありませんが、近い将来このような分野も脳科学の対象になってくることと考えられます。ここは少し飛躍がありますが、世の中に夢や目標を持ち続けた成功事例を多数見つけられることを考慮すればあながちすぐに否定も出来ないかとも思います。信じる力・意志の力には、脳を活性化する可能性があるのではないでしょうか。
このように、自分の夢と目標をもって何かを信じて貫いていくところに脳の潜在能力が発揮されてくるようです。明確な夢と目標をあきらめずに持ち続けることは、内的対処の一つになります。
E.ネガティブな欲求・情動も、感情の面ではポジティブに変えられる(認知の転換)
「人生、山あり谷あり」と昔から言いますが、良いことばかりではないのが世の常です。私たちの日々の生活のなかでは、怒りや憤り、悲しみや同情、嬉しさや喜びなど様々な感情が行き交います。この人間こそが豊かに感じ、そして表現出来る「感情(Feeling)」は、最近の脳科学の研究結果より進化の過程で、「情動(Emotion)」に次いで発展してきたと考えられています。
たとえば、ライオンが吠えて襲いかかってくるのを見て、人間だけでなく多くの動物が「恐怖」の情動を起こします。恐怖という情動は、危険の裏返しになりますから、動物は危険を察知して逃げるという行動に結びつき、動物の生存を促進することになります。このように情動は、生物の生存を促すような単純な反応になっているから、進化において簡単に広まったという考え方です。情動と感情の脳科学の第一人者である南カリフォルニア大学教授のアントニオ・R・ダマシオ博士は、この進化という視点を重視され、次のようにその著書で論を展開します5)。
“人種的、文化的偏見をもたらすような反応は、進化的には、他者の<ちがい>を検出するための社会的情動が自動的に展開されることによっている部分もあるのではないかと、私は考えている。<ちがい>はリスクや危険を知らせ、退却や攻撃を促すからだ。その種の反応はたぶん、種族的社会では有用な目的をかなえただろうが、もはやわれわれにとっては適切どころか、有用でもない。かくしてわれわれは、われわれの脳が、大昔、きわめて異なる背景で反応するようになっていた機構をいまも携えているという事実を学ぶことができる。そして、われわれはそのような反応を無視することを学び、他人にも同じように無視するよう説くことができる。”
日常生活で感じるストレスやネガティブな感情というのは、進化の過程で非常に重要であったとも考えられるのです。現代の日常生活において、理不尽に感じる様々な出来事がもたらす情動と感情は、長い生物の歴史で積み重ねられた負の遺産でしょうか。しかし、ダマシオ博士がもう一つ指摘するのは、この情動反応があったとしても、感情のレベルでは人間はコントロールする術を持っているという点です。これは、今日の臨床では認知行動療法にその実践方法が述べられています。昔から生存をかけて培った、こういう状況では「絶対こうでなくてはならない」という認知様式が、長年の学習効果によってある特定の情動と結びつくことが、認知行動療法の発想の原点です。
たとえば、「〆切は絶対守らないといけない」と長年の生活のなかで学習してきたとしましょう。今まで〆切を守れず痛い目にもあっていることもあるでしよう(私もかなりあります…)。そうすると、わずか数時間で完成出来るくらいの1枚の書類であっても、〆切が迫ってきただけでゆううつになったり、ネガティブな感情におそわれたりすることがあります。
多くの職場でも、「上司にひどく理不尽に怒鳴られて、その後上司の顔を見るだけで怖くなる」や「取引先で大失敗をしてクレームを正面から浴びて、その後人の前に出るのがゆううつになった」など、このようなある状況とネガテイブな感情の結びつきは多く経験されます。
このようなネガテイブな感情の悪循環は、断ち切る事が出来るのです。現代の生活においては、とって煮て食べられてしまうような危険性はもうないのですから。上司に怒鳴られるといっても、人食い人種に捕まるほどには生命の危険はないのです。そんなネガティブな感情反応は、今の生活を生き抜くには不要ですらあるのです。そのためには、「絶対にこうでなくてはならない」などという極端に偏った物事の捉え方を見直していく方法が効果的です。これが認知行動療法的な視点です。今回ご紹介した事例も、仕事と家庭の両立を一つのミスもなく完璧に行わなければならないと視野が偏ってしまったことが、ゆううつという感情反応を引き起こす原因の一つになっていました。
このように、ネガティブな感情は物事を眺める視点を増やして認知の偏りをほぐしていくことでポジティブに変換することが出来ます。みなさんも、ある日誰かの一言で狭まっていた世の中を眺める視野が、パッと広がり目の前が明るくなったという「目を開いてもらった」というような経験が少なからずあるのではないでしょうか。物事の多面性を眺め、考え方を柔軟にほぐしていくことも内的対処の重要な方法です。
以上、今回は現代に不足がちな内的対処を中心にご紹介させて頂きましたが、もちろん、ストレスの対処法は内的対処だけでなく外的対処とバランス良く組み合わせていく事が重要です。働きながら仙人のような生活は難しいですから。そう考えると、究極の内的対処は世俗を捨てる出家などでしょうか。いずれにしろ現状の科学的知見からは一部論理が飛躍する部分もあったかと思いますが、このようなヒントを職場での活動と対策にご活用頂けたら幸いです。
参考文献
- 澤□俊之:HQ論:人間性の脳科学 東京:海鳴社,2005:69-76.
- 築山節:フリーズする脳 -思考が止まる、言葉に詰まる- 東京:日本放送出版協会,2005:23-24.
- 大島清:感動するとなぜ脳にいいか? 東京:新講社,2005:012-013.
- Zubieta, et al Placebo effects mediated by endogenous opioid actvity on mu-opioid receptors. J Neurosci 2005; 25:7754-7762
- アントニオ・R・ダマシオ,田中三彦訳:感じる脳-情動と感動の脳科学、よみがえるスピノザ- 東京:ダイヤモンド社,2005:65-66.